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第2回:「英語もできない、お金もない」まま、アメリカで初めての海外体験(その1)

投稿日:2022/12/20
第2回:「英語もできない、お金もない」まま、アメリカで初めての海外体験(その1)
第1回のコラムで、20年前に私が初めてアメリカに行った時のことに少し触れました。駅や列車に泊まりながらの、ほとんど無銭旅行に等しい旅だったと書いたところ、読んでくださった方々から、面白そうだからもう少し詳しく話せとか、よくそんな無茶をしたなといった声をいただきました。そこで今回は、このアメリカ行きを決めた背景や現地での思い出話などを、2回に分けてご紹介したいと思います。
村重 亮
村重 亮
ワンドロップス株式会社 代表取締役社長 (CEO)
防衛大学校・陸上自衛隊幹部候補生学校で教育訓練を受ける。 2004年 デンマークの大手制御機器メーカーにて、リーダーシッププログラム日本人第一号として採用され、デンマーク本社での日本市場に関する40年来の主要経営課題解決に寄与。 2006年、APACリジョン14ヶ国のサプライチェーンの主要指標を世界トップレベルに引き上げるなどの成果を実現。
2012年に世界で最も過酷なレースと呼ばれるサハラマラソンを完走。茶道・武道を嗜む。


せっかく幹部候補生になったのに、目的を見失ったまま悶々と過ごす毎日

当時、私はまだ20代の前半でした。そしてこの3カ月の旅は、初めてのアメリカというよりも、私にとって初めての海外体験となりました。そもそも語学が嫌いで英語にも興味がなかった私が、なぜいきなりアメリカに行ってみようと思ったのか。それには私自身の中にあった、いろんな迷いを一度全部整理して、とにかく新しい所に向かって自分の意志でスタートを切り直したいという気持ちがありました。

このアメリカ行きの前、私は防衛大学校を卒業し、福岡県久留米市にある陸上自衛隊幹部候補生学校に在籍していました。ここは名前のとおり、陸上自衛隊の幹部となる人材を育成する教育機関です。入学と同時に陸曹長の階級を与えられ、厳しい教育・訓練の毎日が続く。学生とはいえ、正規の自衛隊員として行動することが要求され、とても生半可な気持ちでいられるところではありません。もちろん学生は誰もがその覚悟を決めて、真剣に訓練に励んでいます。

当時の私はというと、せっかく幹部候補生になったのに、自分が何をしたいのか分からなくなっていました。というのも、私は防衛大学校時代には、学業以上に武道の部活動に熱中していました。防衛大学校にはいくつもの武道部がありましたが、中でも私が所属していたところは厳しくて有名でした。それもあって稽古には人一倍励み、全国大会で上位入賞もしたのですが、1年生の時にはそちらに時間をさきすぎて留年までしてしまったほどです

その反動で、上級生になって部を引退したとたん気持ちの張りを失い、そのままなんとなく卒業までの日々を、どうにも宙ぶらりんな気持ちで過ごしていました。自分がうまくいかないのを周りや環境のせいにして、「なんで俺ばかり」とひがんだ気持ちで周りを見ている。そんなある日、ふとしたはずみに、そういう自分自身がうまくいかない最大の原因だと気づいたのです。


「このままではまずい!」と一念発起、とにかく動き出そうと海外行きを決めた

「このままではまずい!」 。私は、まず自分がこれから何をしたいのか自問自答してみたものの、まったく見当がつきません。そこでやみくもに、自分にとって目的になるもの、やりたいことや欲しいものなど、思いつくことを100個くらい書き出して、自分自身の心の内にあるものを整理しようと試みました。その結果、「世界でも通用する個人でありたい」という方向性を、どうにか見つけたのです。

向かうべき場所が見えたら、あとは一気に進んでいくのみです。世界で通用するためにも、まずは外国語くらいできないと土俵にすら上がれない。ならば、ここはみずから退路を断ち、環境のせいにすることを止め、言い訳もやめよう。とにかく一度、海外に行って、世界の人々の考えや空気に触れよう。そして、そのためにも何が何でも最短で英語も身につけようと決意したのです。

今こうして読み返していると、その時は明確だと思った目標自体が、あまりに漠然とした突拍子もないもので、自分でも思わず失笑してしまいますが、その時、五里霧中にあった若い私なりの発奮だったのだろうと、懐かしく思い出します。しかし、この時に手探りで学んだ考えの研ぎ澄ませ方や他責の念を排除する考え方が、その後の人生のターニングポイントになったことも間違いありません。この決断がなければ、今の私はないどころか、おそらく一生後悔していたでしょう。


アメリカ西海岸を目的地と決め、卒業も間近のある日、退官の決意を校長に伝えた

さて、「俺は世界で自分を試す。それにはまず海外に行ってみるんだ!」と一念発起したものの、どこに行くのかも決めていません。そこでまずは、これから自分に何が必要で、その目的を達成するにはどうすべきかを、順を追って積み上げていくところから始めました。

海外で色々なことに挑戦するなら、まず言葉です。最初に学ぶべきは、最も広く使える言葉である英語というのだけは決めていました。そうなれば、行き先もいろいろな条件から考えて、やはりアメリカやイギリスでしょう。その中でも世界への影響力が大きい場所となると、米国の東西海岸もしくはロンドン。さらに私自身の現実的な予算や環境を考慮したうえで、アメリカ西海岸を最終的な目的地に選びました。

かくして「俺はアメリカ西海岸に行く!」と具体的な目標を決めたものの、すぐに学校を辞めたり、周りにその意志を伝えることはしませんでした。というのは、将来、世界のいろいろな場所に行けば、各国の軍隊出身者たちと出会うこともあるでしょう。その時に、自分も日本の士官候補生として学んだ経歴を、胸を張って言えるようにしたい。それには同期の仲間たちと同じ訓練を最後までやり遂げておく必要があると考えたからです。

また学校を辞めるタイミングですが、いろいろ情報を集めて仮説を立てて検討した結果、防衛大学校卒業時ではなく、その後さらに幹部候補生学校を修了した時点と決めました。もちろん自分の考えで学校を去るのですから、いつにしようが自己満足と言われればそれまでですが、中途半端な辞め方だけはしないぞという私なりの矜持でもありました。そこで防衛大学校での残りの日々はもちろん、幹部候補生学校に入学後も、訓練に打ち込む。特に苛酷な野外訓練を中心に、今まで以上に全力をつくすこと、隙をつくらないことを自分に命じ、実践していきました。

いよいよ校長に自衛隊をやめると伝えにいったのは、幹部候補生学校での最後の総仕上げである最終訓練、そして卒業を目前に控えた時期でした。幹部候補生学校の校長は、陸上自衛隊の将官級の幹部で、私たち学生は「将軍」と呼んでいました。そんなえらい人を相手に、「アメリカ人の思考プロセスを学びたい」「ツールとしての英語を身につけたい」「世の中のメカニズムを、肌感覚で学んでみたい」などと、本心で考えていることを包み隠さず話したのですが、校長からすればさぞかし危なっかしく見えたかもしれません。それでも学校を去ることを、黙って許してくださったのには感謝しています。それどころか、「自衛隊を辞めると一気に体力が落ちる可能性があるから気をつけろよ」と声をかけてくださったことを、いまも印象的に憶えています。


厳しい訓練をやり遂げて退官した日、初めての自由の一方で組織を離れた寂しさも

最初に目標を決めた日から最後の訓練を終えるまで、私はそれまで以上に学科でも訓練でも全力を出すように努めました。この「攻め」を徹底することで、自分の行動は「逃げ」じゃないぞと示したい気持ちがあったのです。現場の担当教官も私が辞めるのを知っていますから、訓練では一切の気持ちのゆるみも見せないよう気を張り詰めて、きつい野外訓練の最中も苦しい表情は微塵も見せず、妥協する姿勢をとることもなく最後の日まで全力で取り組みました。

そうして最終訓練を終えた山の中で、改めて正式に退官の意志が変わらない旨を改めて校長に伝えたのです。しかしこれ以降も、同期の仲間には退官の当日まで私が辞めることを伏せたまま、慎重に準備を進めていきました。周りは、みんな幹部自衛官を目指して必死で学んでいる。自分としては退路を断つリスクを取って、人生をかけた勝負に臨もうとしていても、彼らからすれば、私が卒業前に逃げ出したように見えるのは何とも不本意です。

また一方では、私が辞めることが万が一にも周囲に漏れ伝わってしまうと、幹部候補生とはいえ、まだ20代前半の多感な彼らの士気や心理に影響を与えかねません。ここまで一緒に頑張ってきた彼らの緊張感や熱意に水を差すことは、絶対に避けなくてはと考えたのです。

本音を話すと、自衛官の同期や部隊の人たちの人間味あふれる雰囲気、一方では厳格な規律や極限状況での訓練といった、極端ともいえる環境下で24時間を共に過ごす生活ゆえに生まれる、家族を超えた関係のような独特の雰囲気は結構好きでした。訓練に明け暮れた、文字通り泥色の青春時代を過ごした自衛隊を辞めて門を出たその瞬間、世の中のどこにも属していない自由を手にした不思議な感覚と同時に、完全に独りぼっちの存在であるという、言い知れない寂しさを感じたことを今でも憶えています。

防衛大卒業式直後、陸海空の制服を纏う。全寮制で共に過ごした同期と別れを惜しむ。

▲ 防衛大卒業式直後、陸海空の制服を纏う。全寮制で共に過ごした同期と別れを惜しむ。

後日談ですが、あれから20年の時が経った今、すでに陸海空の自衛隊幹部として多方面で活躍する彼らの内の何人かとは、当時とはまた異なった形で親交が生まれています。それが仕事面でのつながりになったり、彼らが悩んだり課題に直面したときに相談にきたりと、良い形で発展しているのは嬉しい限りです。