第3回:「英語もできない、お金もない」まま、アメリカで初めての海外体験(その2)
まったく言葉が通じない! 自ら考えた自己流勉強法で3カ月で英会話をマスター
2003年11月、私はいよいよアメリカ西海岸に向けて旅立ちました。驚かれるかもしれませんが、実はこの時点で、私の英会話力はほぼゼロでした。それでも自分では、行けばなんとかなると思っていたのでしょう。アメリカに着いて、最初に1ドル50セントで小さなポケットラジオを買いました。それで現地の放送に必死に耳を傾けてみたものの、聴き取れたのは「ビンラディン」と「マイケルジャクソン」のみ。本屋を探そうと現地の人に道を聞いても、発音が悪く「Book」が通じない。さすがに「これはやばい」と焦りました。たまたま現地で知り合った在留邦人のグループに話したところ、「いまのレベルから3カ月で話せるようになるのは不可能。なぜなら、私たちはもう1年もいるけれどまだ話せない」との、突き放すような一言が私の負けん気に火をつけました。
そこでまず、初めてのアメリカですが「楽しむ」ことを全部捨てました。観光なんかしないで、ひたすら語学や文化、アメリカの価値観の理解に打ち込んだのです。そして出国前に、今までの自分が日本で習ってきた英語教育を振り返って分析した結果、「これでは絶対話せるようにならない」と確信。自分で考えた学習方法で、眠っている時間以外は全て英語の習得に明け暮れたのです。
3カ月後に、あの邦人グループに再会した時には、彼らの誰よりも話せるようになっていました。この話をするとなかなか信じてもらえませんが、「人類史上最速で英語を身につけたのでは?」と、ひそかにうぬぼれています。この辺りの詳しい話は、また改めてご紹介したいと思っています
1日30ドルで暮らしながら、生のアメリカを体験して回ったラスト1カ月
3カ月の滞在期間中、英語の習得とともに最も頭を悩ませたのはやはりお金でした。自衛隊を辞めてアルバイトなどでつないでいたので、もちろんサイフの事情は推して知るべしです。最初の2カ月はホームステイ先を確保していて、そこを拠点にとにかくお金を使わないように工夫しながら、移民用の安価な語学学校に行ってみたり、本屋で立ち読みをして英語に触れたり、街中やスーパーですれ違う人に徹底的に声をかけたり、誰もいないときはポケットラジオから流れる英語をシャドーイングしながら延々と歩いたり……。
いよいよ正念場を迎えたのが、最後の1カ月でした。前回でも触れましたが、全財産合わせて900ドルと帰りのチケットしか持っていなかったのです。1日30ドルで、帰国までの1カ月をどう過ごすか。紙面が残り少ないので、興味のある方はこちらのリンクからご覧いただきたいのですが、宿泊費や食事を極力削って、残された時間を、この目で見てみたかった、行ってみたかったアメリカを体験するために費やしました。
ホテル代を節約して駅や列車の中で寝ながら、食事は1日コーラ1本ですませた日もありました。明らかに栄養も偏っていて、いつ体調を崩してもおかしくなかったと思うのですが、気持ちが張っていたからか、不思議と身体を壊すことはありませんでした。まだ20代で若く、自衛隊で鍛えた体力があったからでしょうが、我ながらかなりの強行軍でした。40代となった今、もう一度チャレンジしてみろと言われたらどうでしょう。自分でもちょっと興味があります。
さて、ここまで読んできて、どこが突破力なんだ、単におまえが無鉄砲だったけではないかと言われる方もいるかもしれません。あるいは、若くて何も知らないがゆえの怖いもの知らずだったと呆れる方もいるかもしれません。
とはいえ、このアメリカ行きが今の私の、未知の課題やどう常識的に考えても不可能という困難に、強い意志と策を携えて立ち向かう日々の出発点だったとも思っています。まず外国に行こうと思い立った時に、どの国に行くべきかを戦略的に検討した周到さと、そのくせ「英語もできないし、カネもないけど何とかなるだろう」と出かけていった無鉄砲さ。この2つを、つたないながらも実行できたことを、20年後の今、自分でも少し褒めてやりたいとも思っています。
事実、仕事でも私ごとでも、目をそむけたり逃げ出したくなるような場面に向き合い、自らの意思と精神力をもってやり抜き、結果を出す経験を積んだ後に得られる自信は、計り知れない財産となります。私自身は、このアメリカでの経験があったからこそ、その後のビジネスキャリアにおいても海外であっても、またまったく新しい領域であっても突破口を見極めることができたのだと信じています。
日本企業というスコープを通して、「周到さと無鉄砲」の必要性を考える
さて、今回このコラムを書くにあたって当時を振り返る中で、かつての自分の周到さと無鉄砲さをまんざらでもないと思ったのには理由があります。というのは、今いろいろな日本企業のビジネスの支援に関わっていて強く感じるのが、この「周到さと無鉄砲」が、もっと必要ではないかと感じるからです。
周到さだけなら、むしろ日本の企業は相当なものだと思います。新しい戦略や事業を興す際には何度も社内で会議を重ね、関係者に根回しを行い、マーケティングの結果を丹念に分析して、これなら確実だとなって初めて動き出す。こうしたアプローチも、昭和の高度成長期のように社会構造の変化の少ない局面であれば良いと思います。
しかしこの用心深さ、周到さが、現在のデジタル化を始めとする大きな時代の動きに取り残される要因になっているのも事実です。言いかえれば、この長く慎重な「準備・分析のプロセス」が、これまでの知識や経験、そして思考の癖(バイアスやパターン)に依存する結果、かえって変化への対応を妨げるトラップとなってしまう可能性が高いといえます。
では、そうした日本企業が、従来の「周到さはもう無効だ」と考えて、新しい、未知の、自分たちにとってアウェイの環境に、経験もノウハウもないまま「無鉄砲」にシフトした場合、果たしてどうなるのか。おそらく、どこを目指し、どう乗り越えるのかという本質的な前提を欠いたまま、従来のやり方で段取りばかりを繰り返すことになるでしょう。これでは一見周到に取り組んでいるようで、実は新たなチャレンジの足かせになりかねません。そして、結局は実りのないまま延々と「準備・分析」のループに戻ってしまうのです。
今日のような社会、経済、そしてテクノロジーが大きく変わる局面では、好むと好まざるに関わらず、その渦中に飛び込んでいくかどうかの選択が迫られます。そして飛び込むのを決めたら、「過去の事実やデータを振り返り、その中にあるパターンを分析・発見していく頭」と、「まだ存在しない事象とそれを可能にする環境を、将来に向けて作り出すためのプロット(仮説)を立て、目指す事象の発生確率を高める頭」の2つを絶妙に切り変えながら使いこなしていかなくてはなりません。
これを経営の視点から言えば、次々に環境が変化して新しいビジネスやソリューションが生まれてきた時、経営者はどう動くべきか瞬時に判断し、行動に移さなくてはなりません。ここで必要なのが未知でアウェイの環境でも仮説と行動を絶え間なく繰り返しながら進んでいく「周到さと無鉄砲」の合わせ技なのです。
改革を進めるトップに必要なのは「情報と分析と仮説に支えられた突破力」
今、日本企業も欧米型の組織にならってCEOやCOO、CIOといった職制を採り入れています。でも実際に何かを決めようとすると、役員会や事業部ごとの会議を繰り返している。なかなか思い通りに動けない組織としての事情も痛いほど分かるのですが、この光景を見ていると、果たして彼らは「最高〇〇責任者」の正しい意味を理解し、その職責と向き合っているのだろうかという疑問を感じざるを得ません。
企業や組織が、一見無鉄砲にも見えるような選択肢をとるときに、複数の人が安心してそれなら大丈夫という明確な答えをイメージできることは少ないでしょう。逆にいうと、多くの人が「それなら大丈夫」と思うような場合は既存の延長であることが多く、戦略的にはライバルの後手に回ってしまう可能性も十分にあります。組織づくりでは、過去に定義されたオペレーションの流れを基に定義する「機能型設計」が重要なのはもちろんです。しかしそれに加えて今後は、自社が目指す変化とその動きに即応できる反射神経、機動性、そして適応力を高める組織形態を考えることが、より強く求められてくるでしょう。
みんなで話し合って知恵を出し合って、全員の合意のもとに歩みを進めて行くのは、これまでの日本企業の強みであり良さでもありました。しかし今日では、CxOが自身の判断に基づいて、次々に現れる課題に判断を下し行動していく姿勢が不可欠です。そしてここで求められるのが、「周到さと無鉄砲」、言いかえれば「情報と分析と仮説に支えられた突破力」であり、それを成り立たせて形にするリーダーの強い意志と胆力ではないかと私は考えています。
ここでいう責任者とは、いざ何かことが起きた時に「それは私のせいではありません」と、言葉巧みに責任逃れを図る人たちではありません。将来に痛恨の悔いが残らないよう、たとえ今、身近な人に責められ忌み嫌われたとしても、良い未来を守り実現することに、自分の評価やキャリアという枠を超えて、進んで責任を負う人のことです。彼が推し進める改革プロセスの多くは、周りに理解されないでしょう。それゆえにトップは孤独に陥りがちであり、なおかつ孤独になることを覚悟し、受け入れる覚悟が必要になるのだと思います。その時に周到さと無鉄砲という「突破力」は、独り信念を持って進む彼らの自信となり精神的な支えとなるでしょう。
なんだか今回は、自分の未熟だった時代の自己弁護みたいになってしまいました。それでもやはり私は、今、自分が持っている「突破力」は、周到に準備したつもりで実際に出かけてみたら英語は通じないお金もない。それでも必死に考え行動して切り抜けていった、あの20年前のアメリカの無謀な旅から始まったのだと思っています。